鹿児島
2015年07月11日
鹿児島市は2016年3月6日AM8:30分鹿児島市ドルフィンポートをスタートです。参加ランナーは12000人、2015年8月3日〜8月31日までの募集期間となっています。
種目は、42,195KMのフルマラソンと8.9KMのファンランとなっています。
鹿児島マラソン2016大会概要
- 大会名称: 鹿児島マラソン 2016
- 開催日: 2015年3月6日(日)
- 種目: フルマラソン(42.195km・10000人)
- 種目:ファンラン(約9km・2,000人)
- 制限時間: マラソン7時間
- 制限時間:ファンラン1時間30分
- スタート時刻:8時30分マラソン
- スタート時刻:8時45分ファンラン
- 参加人数: 12,000人
- 参加料: フルマラソン 10,000円・ファンラン 3000円
2015年01月01日
2011年01月01日
2011年姶良市は、新年を雪の中で迎えました。
新年の朝、雪の残る桜島が穏やかな錦江湾に浮かんでいます。


2011年も姶良市の地域情報、エリアガイドをお伝えします、2011年が皆様にとり素晴らしい一年となりますよう祈念いたします。
新年の朝、雪の残る桜島が穏やかな錦江湾に浮かんでいます。


2011年も姶良市の地域情報、エリアガイドをお伝えします、2011年が皆様にとり素晴らしい一年となりますよう祈念いたします。
2010年05月28日
薩摩島津家は、日向国島津荘(現在の宮崎県都城市)の荘官(荘園の現地管理人)として鎌倉より下向しました。
島津家初代、島津忠久は鎌倉幕府を開いた源頼朝の有力な御家人で薩摩、大隈、日向の守護大名となります。
しかしながら時代と共に大隅、日向はそれぞれの有力国人が支配権を確立して、島津宗家の実質的な支配地は現在の鹿児島市の一部で名ばかりの守護大名へと転落してしまいました。
鎌倉時代から続く、名家島津宗家が他の守護大名と同様に風前の灯火に陥っていた天文2年、薩摩半島の南端、伊作島津家の居城亀丸城で後の16代島津当主、島津義久が誕生し、その2年後、天文4年同じ亀丸城で17代島津当主、島津義弘が誕生します。天文6年には歳久が天文16年には家久が誕生してこの4兄弟により薩摩島津家は絶頂期を迎えます。姶良市で最期を迎える島津義弘四兄弟は、現在は広葉樹の森が広がる薩摩半島の小さな山城から、岩剣城の戦い、木崎原の戦い、耳川の戦い、沖田畷の戦い、文禄/慶長の役、関が原の戦いと続く数々のいくさを戦い抜いていくことになります。


伊作亀丸城跡は現在、広葉樹の森が広がり往時を偲ぶものはそれほどありませんが空堀や誕生石などを見る事が出来ます。
伊作亀丸城 鹿児島県日置市吹上町中原
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島津家初代、島津忠久は鎌倉幕府を開いた源頼朝の有力な御家人で薩摩、大隈、日向の守護大名となります。
しかしながら時代と共に大隅、日向はそれぞれの有力国人が支配権を確立して、島津宗家の実質的な支配地は現在の鹿児島市の一部で名ばかりの守護大名へと転落してしまいました。
伊作亀丸城跡は現在、広葉樹の森が広がり往時を偲ぶものはそれほどありませんが空堀や誕生石などを見る事が出来ます。
伊作亀丸城 鹿児島県日置市吹上町中原
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2010年03月04日
姶良市と鹿児島市は九州自動車道と国道10号線の2つの主要道路で繋がっています。姶良市役所から国道10号線を15分程鹿児島市へ車で走った右側に西郷隆盛蘇生の家があります。
安政5年(1858年)ときの大老井伊直弼によって一橋派や尊皇攘夷の活動家らを断圧した、安政の大獄が始まりました。また西郷隆盛の最大の庇護者、28代薩摩藩主島津斉彬は公武合体、一ツ橋派の中心人物でしたが5月突然死去しました。
安政の大獄の取り締まりが厳しくなる中、尊皇攘夷派の僧月照が西郷を頼って薩摩に逃れてきました。
しかしながら薩摩藩は幕府の追求を恐れ、月照を東目筋送りとしました。
東目筋送りとは鹿児島市を出発し、姶良市加治木町を通過し宮崎市高岡町の去川の関を出たところで切り捨てる刑罰でした。
11月16日夜半西郷隆盛はこれを悲観し月照とともに鹿児島湾の竜ヶ水沖で船から身を投げました。

西郷が助けられた花倉海岸(けくらかいがん)です。右側は月照絶命の碑です。西郷蘇生の家の近くに鹿児島湾を見ながら建っています。
西郷はその後同行していた平野國臣らに助けられました、西郷は運よく蘇生しましたが月照は絶命してしまいました。余談として西郷を救命した平野國臣は福岡藩士ですが西郷と交流がありました。平野國臣が詠んだ、‘我が胸の燃ゆる想いにくらぶれば煙は薄し桜島山‘は桜島を詠んだ詩として有名です。
鹿児島市吉野町9792 鹿児島市観光企画課 tel 099−216-1344
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安政の大獄の取り締まりが厳しくなる中、尊皇攘夷派の僧月照が西郷を頼って薩摩に逃れてきました。
しかしながら薩摩藩は幕府の追求を恐れ、月照を東目筋送りとしました。
東目筋送りとは鹿児島市を出発し、姶良市加治木町を通過し宮崎市高岡町の去川の関を出たところで切り捨てる刑罰でした。
11月16日夜半西郷隆盛はこれを悲観し月照とともに鹿児島湾の竜ヶ水沖で船から身を投げました。
西郷はその後同行していた平野國臣らに助けられました、西郷は運よく蘇生しましたが月照は絶命してしまいました。余談として西郷を救命した平野國臣は福岡藩士ですが西郷と交流がありました。平野國臣が詠んだ、‘我が胸の燃ゆる想いにくらぶれば煙は薄し桜島山‘は桜島を詠んだ詩として有名です。
鹿児島市吉野町9792 鹿児島市観光企画課 tel 099−216-1344
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