鹿児島

2010年05月28日

薩摩島津家は、日向国島津荘(現在の宮崎県都城市)の荘官(荘園の現地管理人)として鎌倉より下向しました。
島津家初代、島津忠久は鎌倉幕府を開いた源頼朝の有力な御家人で薩摩、大隈、日向の守護大名となります。
しかしながら時代と共に大隅、日向はそれぞれの有力国人が支配権を確立して、島津宗家の実質的な支配地は現在の鹿児島市の一部で名ばかりの守護大名へと転落してしまいました。


伊作島津家亀丸城跡鎌倉時代から続く、名家島津宗家が他の守護大名と同様に風前の灯火に陥っていた天文2年、薩摩半島の南端、伊作島津家の居城亀丸城で後の16代島津当主、島津義久が誕生し、その2年後、天文4年同じ亀丸城で17代島津当主、島津義弘が誕生します。天文6年には歳久が天文16年には家久が誕生してこの4兄弟により薩摩島津家は絶頂期を迎えます。姶良市で最期を迎える島津義弘四兄弟は、現在は広葉樹の森が広がる薩摩半島の小さな山城から、岩剣城の戦い木崎原の戦い耳川の戦い沖田畷の戦い文禄/慶長の役関が原の戦いと続く数々のいくさを戦い抜いていくことになります。


伊作島津家亀丸城跡誕生石説明文伊作島津家亀丸城跡誕生石












伊作亀丸城跡は現在、広葉樹の森が広がり往時を偲ぶものはそれほどありませんが空堀や誕生石などを見る事が出来ます。

伊作亀丸城  鹿児島県日置市吹上町中原  


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doraemon3042doraemon3042 at 21:01│コメント(0)トラックバック(0)この記事をクリップ!

2010年03月04日

姶良市と鹿児島市は九州自動車道国道10号線の2つの主要道路で繋がっています姶良市役所から国道10号線を15分程鹿児島市へ車で走った右側に西郷隆盛蘇生の家があります。

鹿児島市吉野町9792 西郷隆盛蘇生の地安政5年(1858年)ときの大老井伊直弼によって一橋派や尊皇攘夷の活動家らを断圧した、安政の大獄が始まりました。また西郷隆盛の最大の庇護者、28代薩摩藩主島津斉彬は公武合体、一ツ橋派の中心人物でしたが5月突然死去しました。
安政の大獄の取り締まりが厳しくなる中、尊皇攘夷派の僧月照が西郷を頼って薩摩に逃れてきました。
しかしながら薩摩藩は幕府の追求を恐れ、月照東目筋送りとしました。


東目筋送り
とは鹿児島市を出発し姶良市加治木町を通過し宮崎市高岡町去川の関を出たところで切り捨てる刑罰でした。
11月16日夜半西郷隆盛はこれを悲観し月照とともに鹿児島湾の竜ヶ水沖で船から身を投げました。

西郷隆盛が打ち上げられた花倉海岸月昭最後の地の碑西郷が助けられた花倉海岸(けくらかいがん)です。右側は月照絶命の碑です。西郷蘇生の家の近くに鹿児島湾を見ながら建っています。




          

西郷はその後同行していた平野國臣らに助けられました、西郷は運よく蘇生しましたが月照は絶命してしまいました。余談として西郷を救命した平野國臣は福岡藩士ですが西郷と交流がありました。平野國臣が詠んだ、‘我が胸の燃ゆる想いにくらぶれば煙は薄し桜島山‘は桜島を詠んだ詩として有名です。

鹿児島市吉野町9792 鹿児島市観光企画課 tel 099−216-1344


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doraemon3042doraemon3042 at 18:43│コメント(0)トラックバック(0)この記事をクリップ!

2009年11月29日

現在の桜島は20年振りに活動期に入ったようです
鹿児島地方気象台によると平成20年に比べて平成21年は450回も
噴火が増えたようです。

鹿児島市から見た桜島噴火鹿児島市から見た桜島噴火









鹿児島市の降灰鹿児島市の降灰









火山活動は2〜4年は続くと思いますので鹿児島市は暫く降灰で悩むのでしょうか?写真は鹿児島市の降灰です、 鹿児島市民は洗車や洗濯に大変苦労していらっしゃいます。桜島の火山灰は季節、天候によって降る地域が異なります。
春から秋は鹿児島市、冬から春は鹿屋市、雨の降る前は姶良市を含む鹿児島湾奥へ火山灰が降ります。夏の暑い頃、ニュースで火山灰の降る鹿児島市がよく取り上げられます。姶良市は、火山灰が降ると必ず雨が降る為街が汚れずに済み、行政コストもそれほど掛からないようです。

20年ほど、桜島が休止期でしたがこれから活動期に向かっているようです。



doraemon3042doraemon3042 at 02:09│コメント(0)トラックバック(0)この記事をクリップ!